Falcontは彫像制作において、囲いを使わずソフトペーストのみで造型をする新しい技術を 1752~1753年より開発しビスキュイ、小彫像の制作がセーブル工房で始められる。制作期日の大幅な短縮が可能となり裕福で芸術愛好の 一般市民からの注文も可能となり商業的にも成功を収める。Louis Reauの書評に《芸術家が創る彫像 の原型はまるで舞台の仮の彫刻像のように素早く出来上がり、1756~1766年の間は特にその作品群はMoreauの黄色い証書と共に市場に販売されLouis XV 世の世を謳歌した》
Pierre Ennesも彼の展覧会の記事の中で《セーブル工房のFalcont》の題でEtienne-Maurice Falcontのビスキュイ素材についてふれている。《VASE(花瓶)に古式鉄廻し装飾したり、ギリシャ風花ぶな装飾は多分初めての試みであろう。又、同186ページにこのような装飾は作品を強固に長持ちさせる効用もある。この装飾が次代のセーブル工房のLouis XVI世様式の下地になったことは疑う余地は無い》とも記されている。
並行してEtienne-Maurice Falcontはセーブル工房にて大理石塑像に似た彫像を創り1754~1765年の間定期的に作 品の発表を展覧会で行った。(作品名:L’Amour menacant et La Baigneuse1757年作, Pygmalion et Galatee1761年作)又パリの教会の礼拝堂の装飾も制作し、その後Marduel修道院のイコン制作などへの助言もした 。複数の大理石像についての図形教本などの制作もおこなっておりその内容は現在においてもなんら古臭いものではない。
他には個人の好事家に1758年l’Amour Falconet et la Nymphe qui descend au bainの彫像を創った。この作品は後年二つの作品に分けて再度作られ展覧会へ出展された。一つは1761年、もう一つは1762年である。
1766年9月フランスを出国しロシア皇帝Catherine II 世のサンクトペテルブルグヘ移り1778年まで滞在した。その間多くの記念碑制作を手がけた。
★Sevres(cit de la cramique)★ フランスが誇るセーブル窯はポンパドール婦人の助力もあって、王立窯として発展を遂げました。1759年、王立セーブル製陶所となり、今もフランスの文化と美を伝える優れた陶磁器を生み出し続ける国立セーブル製陶所の歴史はここに始まります。セーブルの功績は、国家的使命ともいえるフランス独自の意匠を確立し、完成度の高い芸術作品を作り続けてきたことにあります。18世紀、セーブルは東洋芸術の様式をうけつぎながらも、当代一流の化学者、画家、彫刻家、金工家の参加によって独自の世界を創造しました。「王者の青」「ローズ・ポンパドール」と呼ばれるセーブルの色、華美で鮮麗な装飾、独特の風合を持つソフトペーストなど、他の追随を許さないセーブル芸術が、宮廷文化の中に華開いたのです。盛名を馳せたセーブルも、国窯という背景から生産は非常に限定され、世の人々の目に触れることは少なく、「希少な陶磁器」と呼ばれました。今日に至っても、生産量は年間約6000ピースと限定され、そのほとんどがフランス国家のために作られます。この少量生産は、「最高の作品を作り出す」ための必然であり、その稀少性ゆえに、誇り高きセーブルの名声は一段と高まっています。
フランス国立セーブル陶磁器製作所工房で創作活動をするビスキュイ作家、陶芸家。
ビスケット・白磁人形
【素材:この作品は十八世紀の技法による軟質磁器PT(ソフトペースト)によって制作されています】
この作品の白色磁器(ビスケット)は十八世紀から続く型取り・修復作業アトリエで制作されました。ここではセーブル陶磁器製作所の白色磁器や彫刻類(丸彫り、浅浮き彫り)、ビスケットという意図的に釉薬をかけない白色磁器の作品が1751年及び1752年から制作されています。
作品にはセーブル工房のロゴと制作年度が刻印され、作家のサインが彫り込まれています。
少女が膝にのせた壊れた木靴を済まなさそうに見て、両手をぶらぶらとさせ座っている。少女の綺麗な右足は裸足でスカートからでている。少女の左にいる幼女も壊れた木靴を凝視している。「葉の裏」と呼ばれる同作者の作品があり、それとこの「壊れた木靴」は同列に扱われている。「葉の裏」と呼ばれる作品は緊張感のある作品でまとめられているが、この「壊れた木靴」像の構成のみは大変に静的である。只、性的な処女性の損失を両作品ともに暗示している。当時の上流市民層によれば、LAFONTAINEの著書からイメージをされたこのテーマはFRANCOIS BOUCHERが素描をし、DEMARTEAUにより彫刻がなされた「田舎の風景の中にいる農民とその傍で寝ている子供」の構図からイメージされた作品ではないかと言われている。又その彫刻画の農民の構図に大変似た構成である。異なる点は足の位置、放り出された花篭と壊れた木靴がない点である。花篭と壊れた木靴をあえて消し去った事で、製作意図の違いを表現している。劇場やオペラへの熱狂的な陶酔がFALCONETの作品製作の方向性を示唆し、彼の作製したビスキュイ作品によりFAVART座の劇や舞台が想い起こされる。FRANCOIS BOUCHEERの田園風景画から感受される、恩恵と少年の官能的恋愛はFALCONETの彫刻によって、更にダイナミックに象徴化が進められた。このビスキュイは旧体制「フランス革命以前」まで好評を博した。1760年にベルサイユにて行われた展示会でポンパドール婦人により、「壊れた木靴」「葉の裏」の2種の作品はそれぞれ60リーブルにて買い取られた。これらの作品はVERSAILLEで編纂されたポンパドール侯爵夫人の財産目録「フランスの磁器ビスキュイ」の中で財産として記録されている。又、これらの作品は制作から購入までが短期間に行われており、原型と石膏型の制作が1760年で、財産目録には1761年1月に購入と記載されている。更に、同一の作品は同時期に20点が型取されている。この2つの作品はFALCONETの息子の素描とMENILのビスキュイをもとにETIENNE-MAURICE FALCONETによって作製された作品である。但し、FALCONETは自然な姿勢と服の構図を著しく変えている。特に、この2つの情景はBOUCHER以降の彫版の分野における傾倒が軽度に含まれている。今でもこの2つの作品の互いにかけ離れた作風には驚かされる。と言うのも、「壊れた木靴」は極端に静的で憂鬱な表現をしており、「葉の裏」は明らかにダイナミックで希望に満ち溢れている作風のためである。(TAMARA PREAUDの著書よりの引用)
セーブル工房の「ビスケット」という呼び方は、1751年以来の模様も釉薬もないセーブル工房の陶磁器彫刻のことを指す。この呼び名は白い大理石の無垢な冷ややかさを喚起させると同時に、マイセンの彩色された彫刻作品と区別する為に積極的に取り入れられました。
☆Pate tendre(ou PT)☆
ソフトペースト(軟質磁器:PT):セラミック素材の呼称であり、半透明でカオリンの発見以前のヨーロッパにおいて開発された硬質磁器のベースとなる素材。今日、PTは18世紀の素材のバリエーションのひとつであり、1980年にセーブル工房で再開発され、1260℃で焼かれたものが作られました。「ソフトペースト(軟質磁器)のパテは20ほどの要素から構成されています。初めのものは鉱物の結晶、ガベルの塩、岩石の明礬、アリカントのソーダ、モンマルトルの採石場の高熱で焼かれた石膏、そしてフォンテーヌブローの砂で構成されている。全ての素材は焼いてから使用される」
★Etienne-Maurice Falconet(エティエンヌ モーリス ファルコネ)★ (1716年12月1日に生れ、1791年1月24日にパリにて歿)職人の家系に生れ、彫刻は伯父の大理石、石工師のNicolas Guillaumeに学んだ。その後1730年頃から木や粘土の彫刻を始め1734年にJean-Baptiste II Lemoyne(1704~1778)のアトリエに入る。同氏はAnne Suzanne Moulinと1739年に結婚し4人の子供を持った。その子供の一人が将来、図案家、彫刻家、画家になるPierre-Etienneである。1745年Etienne-Maurice Falcontは芸術大学に入学が許可される。1754年Milon de Crotone賞を授与される。その賞品は現在ルーブル美術館に保管されている。その翌年、同芸術大学の助教授になり1761年に教授、1783年に副学長となる。
芸術家の師弟の絆は強く又その助言者達にも特別な関係が生れやすい。Marie-Anne Ollot(1748~1821)はLemoyneのモデルであったがそのアトリエに通うPierre-Etienne Falcontと1777年に結婚した。只1780年には離婚する。この彫刻家の性格は結婚生活には向いておらず、次世紀に対し制作した数々の作品の傾向のように革命的な気性が災いしたようだ。
Falcontの作品に多くのFrancois Boucherの影響を見逃すわけにはいかない。この2人の芸術家はCrecy城の庭園内にある、酪農場に設置するための彫刻像の下見の際1749年に初めて出会った。この酪農場はポンパドール夫人の別邸として模様替えが行われていた。Boucherの図案てFalcontがビスキュイを制作するパターンは後のセーブル 工房での制作へと引き継がれていく。
1757年、王立セーブル工房の彫刻部門責任者に任命される。Falcontは週のうち一日をセーブル工房で仕事をした 。磁器作品の前段素焼きの原型作りである。多くの作品はFrancois Boucherの図案構図や絵画からの啓示を受けている。ポンパドール夫人所有のCrecy城の別邸に置かれた数々の作品もこのBoucherの絵画の影響が多く見られる 。その後、次第にFalcontの制作テーマは二つの流れに絞られて来た。一つは「子供」をテーマにした彫像でありもう一つは「 Fontaine寓話」である。只ここでもFrancois Boucherの芸術的相続人であることに変わりはなかった。小彫像の作品群は「動き」に重点をおいてセーブル工房で磁器素材で制作された。この作風は1764年から1766 年にかけて広く欧州全体へ波及した。
Falcontは彫像制作において、囲いを使わずソフトペーストのみで造型をする新しい技術を 1752~1753年より開発しビスキュイ、小彫像の制作がセーブル工房で始められる。制作期日の大幅な短縮が可能となり裕福で芸術愛好の 一般市民からの注文も可能となり商業的にも成功を収める。Louis Reauの書評に《芸術家が創る彫像 の原型はまるで舞台の仮の彫刻像のように素早く出来上がり、1756~1766年の間は特にその作品群はMoreauの黄色い証書と共に市場に販売されLouis XV 世の世を謳歌した》
Pierre Ennesも彼の展覧会の記事の中で《セーブル工房のFalcont》の題でEtienne-Maurice Falcontのビスキュイ素材についてふれている。《VASE(花瓶)に古式鉄廻し装飾したり、ギリシャ風花ぶな装飾は多分初めての試みであろう。又、同186ページにこのような装飾は作品を強固に長持ちさせる効用もある。この装飾が次代のセーブル工房のLouis XVI世様式の下地になったことは疑う余地は無い》とも記されている。
並行してEtienne-Maurice Falcontはセーブル工房にて大理石塑像に似た彫像を創り1754~1765年の間定期的に作 品の発表を展覧会で行った。(作品名:L’Amour menacant et La Baigneuse1757年作, Pygmalion et Galatee1761年作)又パリの教会の礼拝堂の装飾も制作し、その後Marduel修道院のイコン制作などへの助言もした 。複数の大理石像についての図形教本などの制作もおこなっておりその内容は現在においてもなんら古臭いものではない。
他には個人の好事家に1758年l’Amour Falconet et la Nymphe qui descend au bainの彫像を創った。この作品は後年二つの作品に分けて再度作られ展覧会へ出展された。一つは1761年、もう一つは1762年である。
1766年9月フランスを出国しロシア皇帝Catherine II 世のサンクトペテルブルグヘ移り1778年まで滞在した。その間多くの記念碑制作を手がけた。
フランスに戻った後1783年に病に陥り彫像についての論文整理に専念する。 又、古来の芸術文献を学び芸術大学の良き助言者としてあり続けた。Falcontには変わらぬ後援者と友がいる。彫像の良き理解者であるポンパドール夫人1752年にLa Musique、花と果樹の女神の彫像をCrecy城に制作し、1757年L’Amour像をパリの別邸に制作した。この建物は現在は大統領官邸となっている。Falcontの友人である Denis Diderotの伝評作家でもあるが《ここに一人の人間がいる。比較のしようのない万物起源の質のわかる者。彼は土を練る》Diderotは1759年、百科全書の彫刻に対する技術、哲学の深遠な説明を生みいつまでも変わらぬ友情は終わることが無かった。他にもDimitri Alexievitch Galitzine王子(ロシア皇帝Catherine II世の在フランス大使も1765~1767年に努める)Falcontのロシア滞在中の住居も提供した。1773年には Diderotと3人の面談もロシアで成った。
Etienne-Maurice Falcontは数多くの素焼き塑像も制作した。注文はフランス王の建物のための作品もあるが、特筆すべき新しい装飾は1753年パリのSaint-Roch教会、Marduel修道院の作品である。
★Sevres(cit de la cramique)★ フランスが誇るセーブル窯はポンパドール婦人の助力もあって、王立窯として発展を遂げました。1759年、王立セーブル製陶所となり、今もフランスの文化と美を伝える優れた陶磁器を生み出し続ける国立セーブル製陶所の歴史はここに始まります。セーブルの功績は、国家的使命ともいえるフランス独自の意匠を確立し、完成度の高い芸術作品を作り続けてきたことにあります。18世紀、セーブルは東洋芸術の様式をうけつぎながらも、当代一流の化学者、画家、彫刻家、金工家の参加によって独自の世界を創造しました。「王者の青」「ローズ・ポンパドール」と呼ばれるセーブルの色、華美で鮮麗な装飾、独特の風合を持つソフトペーストなど、他の追随を許さないセーブル芸術が、宮廷文化の中に華開いたのです。盛名を馳せたセーブルも、国窯という背景から生産は非常に限定され、世の人々の目に触れることは少なく、「希少な陶磁器」と呼ばれました。今日に至っても、生産量は年間約6000ピースと限定され、そのほとんどがフランス国家のために作られます。この少量生産は、「最高の作品を作り出す」ための必然であり、その稀少性ゆえに、誇り高きセーブルの名声は一段と高まっています。
セーブル フィギュリン 超希少 白磁人形